「BALLAD 名もなき恋のうた」★★


(そこはかとなくネタバレ)血が出ない映画なのに人が死ぬ。山崎貴はその理由を子供が観てる映画だからと主張する。正論である。故にダメなのだ。別に僕だって槍衾したらぶったたかれた方は鎧ごと肉と骨が潰れる音が! トカ、頚動脈切られたら大出血が! トカ、生首ごろごろ転がってます!トカ、それを敢えて描写する必要はないけど、画面外でありました的なものすら見事なほど感じない。生きている生臭さが全部CGで消されている戦国時代の物語でした。臼井先生のご冥福を祈りながら観てました。


姫と若武者のタダの恋愛物語には興味ありません。興味があるのはその他のキャラクターのことばかりです。というわけで、野原一家の造形について。
この映画じゃ川上一家という名前ですが、しんちゃんがまあ毒も薬もない、ごく普通の小学生になってたのは、多分どこの子役事務所でもケツ出し許可が降りなかったものとしてしょうがないと百歩譲って納得するしかない。えらそうです。わかってます。シロがいないのもひまわりがいないのも納得する、し、か……。
筒井道隆夏川結衣にはひろしとみさえがオーバーラップする瞬間が何度かあってちょっと感動した。キャラは全く違うし、オリジナルの台詞を喋るシーンどちらかといえば違和感全開なんだけれども、筒井さんがひろしに、夏川さんがみさえにちゃんと見える時がある。
ケチつけるとすれば、ひろしがクリエィティブなお仕事(写真家)になったのは監督のチョイスらしいけれど、ひろしは家族の為に働く企業戦士である事に重大な存在意義があるのに、その役割が昼寝が日課のみさえに振ったことで、そこで違和感が出ちゃうんだな、と思いました。それでもひろしはひろし。現代の家族のために戦うおとうさんの象徴として、筒井さんの佇まいがスゴい。情けないけど、でもその情けなさの中に煌くひろしの姿が確かにあった。

もうひとつ興味深かったのは、野原一家が関わる草ナギ君演じた井尻又兵衛の家来である、仁右衛門一家の造形。オリジナルの仁右衛門一家は息子たちは全員戦死しており、仁右衛門と奥さんの2人だけしか出てこないのだが、本作では末っ子がまだ生きており、これが吉武怜朗演じる「文ちゃん」である。
文ちゃんはよわっちいひよっこ武士だが、なんだかんだクライマックスを何とか生き残る。仁右衛門一家は実は野原一家の祖先という消えた設定がオリジナルにはあったので、この設定が復活したのかと思ったんだけれども果たして文ちゃんの物語はひろがることなく終わってしまい、勿体ないにも程があるというオチがついた。文ちゃん何かとポイント抑えていたのに何だったんだ。
せめて彼の子孫が、実はしんちゃんの同級生の女の子だった……ぐらいの隠れタイムサーキットが発生しててもよかったと思うんですがね。成長したしんちゃんがあの子を助け、遠く隔たれた友情が双方知らない間にまた結ばれるとかなんとかぐらいのギミックが。あの現代に戻ってきてから春日の城に向かうシーンカットしてこっちを差し込んでほしかった。

最後に冒頭しんちゃんへのイジメを先生に報告したがために、イジメっ子に報復されてしまうシーン、はないんだけれども、その後のところで助けることもできず悶々とするしんちゃんを睨んでた女の子の着衣がちょっと乱れ、ランドセルがぶっ壊れている描写に非ッ常に陰湿なヤバさを感じたのは僕だけですか? 血がない描写のヌルさを唯一上回ったシーンでした。