「DEATH NOTE」最終回一回前雑感


 西尾維新でノベライズ発売が発表された「デスノート」最終回一回前。ノベライズ版の物語はL時代のエピソードのようで、それはもしかして美空ナオミさんが関わった事件なんでしょうか。原作者待望、というアオリがありましたが、結構バクチな起用だと思いました。

 ああ西尾作品を読んだ人はきっとわかるこの不安感。作品の質の推移の傾向が、上遠野浩平と同じパターンをたどりつつあるような気がしなくもないから……。


 で、本編。斜に構えていても「正義・友情・努力」を信じたい少年誌の読者をドン底に突き落とす、デスノートを使った人間の末路。当初から「デスノートを使った人間が天国にも地獄にも行けると思うな。死んでからのお楽しみだ」という台詞で現されその言葉が意味したのは、ただ死ぬだけ。それだけ。

 使った人間にとっても使われた人間にとっても、どれだけ命を奪った人間であっても、罪もないのに心臓止められてその死が痛みがどんなに不条理であっても、「神」の前では木っ葉一枚と同様に軽くもなく重くもないただの命ひとつだった……ってヒッデー!!!(大爆笑) 

 少年誌でコレやったのは、良い悪いはともかく、面白いなぁと思いました。普通だったら犯した罪の分の罰を喰らうとか、(ないだろうけど)月が悔い改めるトカ、そっち方向の裁きに向かうだろうに。


 リュークのリアクションに対しては賛否両論噴出だろうなぁと思いつつ、彼が死「神」様だと思うと、そんなに驚くことでもなかったというか、ふと20世紀最高の凶悪紳士レクター博士が活躍(?)する、トマス・ハリスの「ハンニバル」で、図れない神の気紛れな残酷さについて博士が思考する場面を思い出しました。

 引用しようと思ったんですが、手元に資料がなかったので割愛。もしもお読みになる際は食事時の読書を激しくオススメ致しません。